夢見好のブログ
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寛永通宝の砂絵で有名な観音寺市
古銭で買い物できる街
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腐食したモノや鉄銭は使えないそうだが、1枚30円で利用できるらしい。
寛永通宝。←ウキペディアを見る
上:裏面に波形が刻まれているもの(4文)、中:文銭、下:一般的なもの(1文)
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上:裏面に波形が刻まれているもの(4文)、中:文銭、下:一般的なもの(1文)
寛永通宝・砂絵・動画
寛永通宝・大正末期(写真)
大正末期の砂絵。現在よりもかなり浅く、周囲の松林もまばらだ(観音寺市文化財保護協会編「ふるさと観音寺」より)
砂で描かれた奇妙なオブジェ
砂絵のルーツは謎(なぞ)に包まれている。いつ、だれが、何の目的で築いたのか。研究者の間でも諸説紛々、入り乱れているが、公的な文書類が残っていないため確たる裏付けはない。これほど大掛かりな造型にもかかわらず、出自はまったく不明。まるでナスカの地上絵だ。
「寛永十(一六三三)年、当地を治めていた丸亀藩主の生駒高俊公が領内巡視の際、土地の村人たちが領主歓迎の気持ちを表すため一夜にして造りあげた」。展望台の広場にある立て札にはそう記載されている。
市の観光パンフレットにも立て札と同様の説明が載っている。しかし、寛永通宝が流通したのは三年後の寛永十三(一六三六)年からであり、生駒公が来訪したという記録も残されていないという。立て札説はどうも分が悪そうだ。
次は江戸末期の一八五五年ごろの造営説。観音寺市史(昭和三十七年編さん)によると、幕府が諸藩に沿岸警備の増強を命じたのを受け、丸亀藩は荘内と有明浜の二カ所に砲台を築造することになり、京極朗徹公が来訪した際に普請奉行が「藩主の一興に供せんがため掘らせた」という。
二つの説には実に二百年以上の開きがある。さらに領主を歓迎するのに銭形を掘った意味も理解に苦しむところ。「普通は生駒家の家紋などにするのではないか」。砂絵研究をライフワークにしている元観音寺市職員香川和昭さんも疑問符をつける。
あっと驚く新説を発表して話題を集めた研究者もいる。「銭形は一夜にして造られたのでなく、実は『造り変えられた』」。高瀬町の森田泉さんの説だ。
森田説によると、砂絵はもともと銭形ではなく、豊臣家の象徴の「ひょうたん」が描かれていた。当時の生駒家は親豊臣派であり、徳川幕府になってからも豊臣家の再興を願って倒幕の機会を待っていたという。
寛永十年に幕府の巡検使が訪れることになった。しかし、倒幕のシンボルである「ひょうたん」を見せることはできない。このため、急きょ現在の銭形に造り変えた。「きな臭い背景を抹殺するための権力が働いたため、公的な文書が残っていないのではないか」と森田さんは分析する。
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